平和のゾーン【その他】

永井博士と山里小学校

【更新日】2021年06月30日

永井博士の愛
● 永井 隆 博士 ●
 ~ 人を愛し,平和を願い,忍耐と奉仕に生きた 永井隆博士 ~
 明治41年2月3日,島根県に生まれた永井博士は,医者を目指して長崎医科大学に入学し,卒業後は放射線医学を研究した。研究熱心な永井博士は,このころ治らない病気と言われていた結核を研究するために,一日に何百人ものレントゲン写真を撮るという無理が重なって,37才の時,白血病にかかってしまった。しかし,その後も病気の体をおして,熱心に治療と研究を続けていた。
昭和20年8月9日,午前11時2分。長崎に原子爆弾が落とされ,この1発の爆弾で15万人もの人々が死んだり,けがをしたりした。この時,永井博士もこめかみの血管を切るという大けがを負ったが,「如己愛人」(自分と同じように人も愛する)の精神で,自分のけがの手当は後回しにし,生き残った看護婦を集め,自分が失神して倒れるまでの3日間,必死にけがの手当にあたった。
 ピカッ!その瞬間,愛する大学,学生,妻,研究してきた多くの資料は,すべて灰になってしまった。私は地獄へでも突き落とされたかのような絶望を抱いた。・・・・・が,その絶望は半日も続かなかった。それは,まったく新しい希望を抱いたからであった。その新しい希望とは,・・・・目の前に現れた新しい病気,これまでどこにもなかった病気・・・・原子爆弾症!この新しい病気を研究しよう!そう決めた時,それまで暗く圧しつぶされていた心は,明るい希望と勇気に満ちた。私の科学者魂は奮い立った。五体は精気を取り戻し,文字どおり立ち上がった。
~『この子を残して』(著;永井隆)より~

      

 その後,奇跡的に回復した永井博士は,しばらくは原爆の被害報告書を書いたり,大学での研究を始めたりしていたが,病気は永井博士の体を確実にむしばんで,とうとう立てなくなってしまった。しかし,「腕や指はまだ動く。自分には書くことができるではないか」と,平和への強い願いをこめて「如己堂」で本を書き始めた。病気は日に日に悪くなる一方だったが,それでも永井博士は本を書くことをやめず,HBから2B,さらに4Bへと濃い鉛筆に変え,最後はこするように一生懸命,本を書き続けた。永井博士が書いた「長崎の鐘」「ロザリオの鎖」などの本は,日本中の多くの人々に読まれ,感動を与えている。また,半紙1000枚に「平和を」の3文字を記して多くの人々に送り続け,遠くはヨーロッパやアメリカの人々にまで平和を強く訴えた。
不自由な体で平和を祈り,本を書き続けている永井博士のもとには,ヘレン・ケラーさんをはじめ,外国からも多くの人々が励ましにやってきた。こうして永井博士の平和への願いは,世界中の人々にますます知られるようになった。
また,永井博士は,焼け野原になった長崎の町に,「平和を」「如己愛人」の思いを込めて1000本の桜を贈った。
昭和26年5月1日,ついに病が重くなり,多くの人々に見守られながら43才の若さで亡くなってしまったが,永井博士の「平和を」の願いは,いつまでもいつまでも人々の心の中に生き続けていくことだろう。
       
● 永井博士と山里小学校 ●
  病床にあった永井博士の発案で,被爆から4年目の春,昭和24年,生き残った本校の児童たちが体験し,目で見た原爆の悲惨さを広く社会に知ってもらうため,その体験を作文にまとめた。 この体験記が,永井博士の指導と助言で講談社から「原子雲の下に生きて」という本として出版された。この本には,表紙扉,カットは永井博士の自画で,児童37名と教師の2名の体験が載せられている。この本の印税によって「あの子らの碑」が作られ,昭和24年11月3日に除幕式が行われた。以来,本校では毎年この期に,全校をあげて碑の前で「平和祈念式」を行い,平和の誓いを新たにしている。

 また,校門下の坂道には,永井博士から寄贈された50本の桜が植えられており,「永井桜」として児童や地域の人々に親しまれ,毎年春にはきれいな花を咲かせている。

 「永井博士のことばから」

「・・・この石碑に敬礼しろ,などと強制するようになったらだめですね。・・・この石の上に子どもたちが乗って遊んでいいじゃないですか。石碑が高かったり,細長かったりすると遊ぶのに危険ですから,ずんぐりして低い危険のない石碑にしてもらいました。長い年月の間には,この石碑が何のために建ったのか,分からなくなるかもしれません。でも,子どもたちは遊びながら,「この石碑の絵は何をしているのだろう。平和っていったいどういうわけだろう。むかし,何千何万の人が原爆で死んだげな,じいちゃんがそう言いよったばい・・・。」などと話し合うでしょう。建設者の名前だとか年月日とか,そんなものはいっさい書かないほうがいいですね。死んだ兄弟姉妹や子や親をいたむために,そして,平和を求めるためにですね・・・。」