平和のゾーン【その他】

山里小学校被爆体験記

【更新日】2021年06月30日

山里小学校被爆記

 

被爆直後の山里小学校

山里小学校の被害は,コの字型の鉄筋コンクリート三階建(一部は地階も含めて四階)の校舎の南及び西側の三階の部分が崩壊し,まもなく発生した火災により(発火点は正面二階理科室付近)北側の一・二階を残して全焼した。人員の被害は,当日の在校者32人のうち,校長以下職員26人,用務員2人が死亡し,生存者はわずか4人であった。

この日,職員は校区の巡回授業を中止し,二班に分かれ作業中であった。教頭班(男子1人・女子11人)は,本原町の学校水田で除草作業中に全員が火傷を負い,校長班(男子5人・女子10人)は,運動場のまわりのがけに18個目の防空壕掘っている最中で,3人が爆死,9人が負傷した。この時一瞬の差で防空壕に飛び込んだ林 英之ら3人が無事だった。
校舎では,日直1人が助かっただけで,用務員1人爆死,職員2人,用務員1人が負傷した。校舎に火の手が上がった頃,教頭班は学校水田から火傷のまま戻ってきた。しかし,これらの負傷者の中には,その日のうちに息絶えた者もあり,また,大半が10日程の間に死亡した。
このほか,同校では三菱兵器製作所会計課の一部が分散して北側の二教室を使っていた。この分散事務室には,県立長崎高等女学校等の動員学徒を含めて数十人がいたが,学校側と同様死傷者が出たようである。また,屋上見張り所及び玄関近くの仮詰所に待機中の警防団数人の中にも死傷者があった。さらに,地階に保存していた非常食950俵,一週間くすぶり続け灰になった。
なお,本校児童の被害は,校区が爆心地帯であるだけに大きく,通学区内には全焼または倒壊を免れた家屋は一戸もなく,死亡者も多く,一家全滅も少なくなかった。当日,児童は登校していなかったが,自宅で爆傷死あるいは火傷死したものが極めて多かった。その後の調査によれば,本校在籍児童数1581人(昭和20年6月30日現在)のうち,およそ1300人が死亡したと推定されている。

※ 当日の詳しい様子  →  岩永衣伊子先生からのお手紙

山里国民学校救護所

12日には,本校に針尾海兵団救護隊によって治療所が設置され,前後して布の配給及び罹災受付事務を開始した。その後,25日に収容中の負傷者を新興善国民学校と経済専門学校の救護所に移し,治療所,収容所とともに市の出張事務も閉鎖した。その間の治療患者数800人,死亡者142人であった。

 

困難の歴史

9日の被爆で多くの児童職員を失い,校舎も北側の五教室を残して全焼。その後も,黒く空洞化した残骸は原子野の丘に建っていた。
やがて,児童の被爆状況を調査するため,校区内に立て札や張り紙を出して児童を呼び集めたが,その日(10月1日)に登校したのはわずか100余人,かつての10分の1にも満たなかった。集まった児童が着ていた衣服は汚れてみすぼらしく,栄養失調気味で青白く,はだしの者もいた。
その日は,「教科書も鉛筆も帳面も,みんな焼けてしもうた。」と泣きながら訴える児童とともに,先生たちももらい泣きをするしかなかった。学校側にしても,施設も教材も焼失しており,授業を再開するどころではなかった。
10月下旬から,長崎師範学校の焼け残りの校舎を借り受け,焼け残りの材木を拾い集めて間仕切りし,形ばかりの三教室を使い,とりあえず授業が再開された。しかし,窓ガラスは一枚もなく,忍び寄る寒さの中での授業は心身ともに凍る思いで,室内で焚き火をし,そのまわりに身を寄せながらの授業が続けられた。
翌年,昭和21年6月になって元の校舎に戻ることができたが,ここでも荒廃した校舎を使用し,二部授業を余儀なくされる困難は消えなかった。