平和ウォークに出発!


 さあ出発です。6年生が平和さるくガイドになります。

私たちの山里小学校です。 運動場に集合しました。 6年生のあいさつです。 班ごとに並びます。
さあ出発ですよ。 しっかり勉強してきましょう。 1年生もがんばって参加します。 説明が始まりました。



<解説>


○ 山里小学校   〜 原爆の多大な被害を受けた小学校

 爆心地から北へ約700mに位置する本校は、原爆によりコの字型の鉄筋コンクリート3階建ての校舎は北側の1,2階を残して倒壊。当日作業中だった教職員28名が爆死。また、校区が原爆落下中心地付近であったことにより、児童1581人のうち約1300人が自宅付近で亡くなるなど多大な被害を受けました。

 本校は永井隆博士ともゆかりが深く、彼が子どもたちと建てた「あの子らの碑」もあり、たくさんの千羽鶴とともに佇んでいます。また、永井隆博士作詞、木野普見雄作曲の「あの子」という歌を歌い続けています。

 校舎裏手には多くの人が避難し、息を引き取った防空壕が保存されています。



○ 原爆落下当日の学校の様子

 原爆投下により夏休みで校庭や運動場で遊んでいた多くの児童が一瞬で爆死いたしました。
 また、当日出勤していた職員のうち、馬渡久吉校長以下教員26人、用務員2人が爆死。職員の生存者はわずかに4人でありました。

 この日、職員は校区の巡回授業を中止して2班に分れ、古賀右喜雄教頭班(男1人・女11人)は、本原町の学校水田で除草作業中に全員が火傷を負い、馬渡校長班(男5人・女10人)は、運動場の周りの崖に防空壕掘り中、3人が爆死、9人が負傷しました。このとき、一瞬の差で防空壕に飛びこんだ林英之訓導ら3人だけが無事でした。校舎では、日直職員1人が助かったのみで、地階の用務員室で昼食準備中の用務員1人爆死、職員2人、用務員1人が負傷しました。校舎に火の手があがったころ、古賀教頭班は学校水田から全身大火傷のまま戻ってきました。しかし、これらの負傷者の中には、その日に息絶えた者もあり、また、大半の者が10日ほどの間に死亡したのです。

 このほか、本校には三菱兵器製作所会計課の一部が分散疎開して、北側の2教室を使っていました。この事務室には、県立長崎高等女学校等の動員学徒を含めて数十人いましたたが、学校側と同様に多数の死傷者がでました。