※ 原爆投下当時、本校の教職員として勤務されていた岩永衣伊子先生は、多くの先生方が命を落とされた中、

     奇跡的に命を取り留められた先生のうちのお一人です。

      岩永先生からいただいたこの手紙は、当時の本校の様子を知ることのできる大変貴重なものです。








       
岩永衣伊子先生からのお手紙




 皆さんおはようございます。今から65年前、この山里小学校で、皆さんのような元気なお子さんに勉強

や運動などを教えていました岩永衣伊子と申します。

 本来ならば、皆さんのお顔を見ながらお話しさせていただくのが一番良いと思うのですが、体調がよくあ

りませんので、文章でお伝えさせていただくことをお許しください。

 今から65年前、この長崎に、原子爆弾が落とされた時のすさまじい様子を皆さんにお伝えし、いろいろ

と考えていただきたいと思います。



 当時は、腹一杯食べる物もなく、着る物もなく、履く物もなく、色んな物を売っているお店もありません

でした。物の豊富な今の世の中を生きる皆さんからみたら、想像すらできないと思います。デパート、スー

パー、コンビニ等、あらゆる店がいっぱいあり、色々な品物が思いのままに手に入れることができますが、

当時は、お金はあっても買う品物がなく、みんなひもじい思いを常にしていました。アメリカと戦争を始め

た最初の頃は、お米は一日に、一人一合くらいしか配給がありませんでした。当時のお母さんたちは、その

お米に大根やかぼちゃ等、配給された物を混ぜて雑炊にして量を増やして炊いていました。白いほっかほか

のご飯など、夢の夢の話でした。

 だんだん戦争が激しくなってくると、配給される物の中から米がなくなり、フスマといって、大豆から油

をしぼりとったカスが主食として配給されるようになったのです。今では、鶏などの餌として使用されてい

るようです。

 そこで先生方は考えました。4年生以上の各学級で、運動場の周りにある空き地の硬い土を掘り起こして

畑にし、さつま芋やかぼちゃの苗を植え、各学級で競って作業に精を出しました。植え付けが終わると、今

度は学校から300メートル程離れた本原(現扇町)の地にあった深井消防団長さんの2500平方メート

ル程の水田を借りて、5・6年生の児童と共にお米を作るための田植えをしました。慣れない作業でみんな

ヘトヘトに疲れましたが、不平を言う人は一人もいませんでした。



 原爆が投下された8月9日。その日は田の雑草取りと、防空壕掘りの二つの作業をすることになっていま

した。この作業は、先生たちだけの作業です。現在校舎が建っている場所が当時の運動場で、前の校舎が建

っていた敷地より2メートルあまり高く、東側と北側には高さ7,8メートルの崖がありました。東の崖に

はたくさんの横穴式防空壕が掘られていて、近所の方や他の大勢の人々が警報のサイレンが鳴る度に走って

避難に来られていました。そのため、先生たちが入る壕が不足し、新しく掘ることになりました。

 そこで、先生方を二班に分け、田の雑草取りをする古賀教頭先生と、12名の女の先生は昨夜から学校に

泊まり、早朝の涼しいうちにと5時頃より朝食もとらずに出発しました。残りの馬渡校長先生、永野先生、

木下先生、林先生、旧制中学を卒業したばかりの17歳の若い榊助教の先生、5人の男の先生方と、私をは

じめ女の14名の先生たちは体に汗しながら防空壕掘りを続けました。男の先生はほとんど軍隊に招集され

て数が少なく、林英之先生がつるはしで掘りかけの壕を3メートルくらい掘り進めていたと思います。私と

弓井一子先生は体を二つに折り、掘られた土をホゲに入れ、運動場の端までリレー搬送をしている先生に渡

す作業をしていました。



 その時、かすかな飛行機音が聞こえてきました。飛行機音にはみんな敏感になっていました。警報は空襲

警報も警戒警報も解除中でした。友軍機かと思ったその瞬間、耳が破れんばかりの爆音に、とっさに掘りか

けの壕に飛び込みました。奥まで届かない時点で、目が潰れるような閃光と熱風、火傷のような痛みとすご

い耳の痛みに襲われました。

 敵か味方か見てくると言って崖を登って行かれた榊助教の先生の姿は、とうとう最後まで見つけることは

できませんでした。

 最初は学校が大きいため、直接弾を受けたかと思っていました。後で気がついたのですが、壕の入り口は

爆心地方向の南を向いていて、掘りかけのため遮るものは何もなく、直接壕を爆風と熱風が襲ったのです。

 壕の長さは3メートルくらいしかありませんが、中は真っ暗闇になりました。

 後から壕の中には、林、弓井先生と、私の3名しかいないことがわかりました。



 徐々に壕の中が明るくなり、林先生が恐る恐る外の様子を見られて、私たちに「しばらくは絶対に外に出

ないように」と言いながら出て行かれました。人々の呻き声が聞こえてきました。弓井先生と入り口の所ま

で出て外の様子を見て我が目を疑いました。この世のものとは思われない光景に失神しそうになりました。

近所の人々の大人や子供、学徒動員で働いていた県立高女や女子商業の生徒の皆さん、作業中だった同僚の

先生方大勢が、運動場を横切り、防空壕までたどり着けないでみんなその場に伏せたのではないでしょうか。

生きて苦しみもがいている人、すでに息絶えた人、一糸まとわず丸裸で倒れている人々々。一人の女の先生

は、10メートルくらいも吹き飛ばされ、崖に打ちつけられて即死の状態、しかも丸裸です。

 体から何か垂れ下がっています。よく見るとそれは人の皮膚なのです。それらの人々が運動場一面にいっ

ぱいです。私は鳥肌が立ち、体がガタガタ震えました。

 それから夕刻まで日直で職員室で助かられた吉浦アサ先生を加え、助かった4人の先生で、息絶え絶えに

横たわり、髪は鳥の巣同然で顔も焼けただれ、誰が誰だか分からないほどに変わり果てた先生方を、名前を

呼び確認しながら探し出し、壕の近くまで引きずるようにして運びましたが、つかんだ腕の皮膚がズルッと

むけ、悲鳴をあげて痛がられました。「ごめんね、頑張って!」と叫び、かわいそうで泣きながら作業をし

ました。あまりにも残酷でむごすぎる体験です。



 ほどなくして田の雑草取りに行っていた古賀教頭先生はじめ女子先生方が今にも倒れそうにふらふらしな

がら帰って来られました。背中一面真っ赤に焼けただれた痛ましい姿に息をのみました。やっと一か所に集

め終わった先生方は、「水を、水を」と振り絞るような声で懇願されます。水を探しに行きましたが、水道

からは一滴の水も出ません。校外へも探しに出ましたが、爆風で吹き飛ばされて壊れた家々の材木が道をふ

さぎ積み重なり、道なき道の上を歩きました。靴ではなくわら草履をはいていた足に釘が刺さりましたが、

気が張っていたのか、井戸を探すことで夢中だったのか、先生方の水を求められる苦しい顔が目に浮かび、

その時は我を忘れて井戸を探しました。そこら中にも、真っ黒焦げで男の人か女の人か区別すらできない人

や、内臓が飛び出ている5,6歳くらいの子供など、亡くなられた方々の死体がいっぱいです。

 林先生から水が見つかったとの連絡で負傷した先生方の元へ戻りましたが、どこで見つけられたのかでこ

ぼこにゆがんだ鍋の中の土色に濁った水を、先生方はおいしそうに飲まれました。足りなくて何度も水探し

をしましたが、先ほど歩いた家々の残骸は火に包まれすごい勢いで燃えていました。

 助かった4人の先生で負傷された先生方を一生懸命になって介抱しましたが、夕刻6時頃だったと思いま

す。後ろ髪を引かれるような気持ちでしたが、家のことが気にかかり助かった林先生をはじめ4人は学校を

後にしました。



 門の所を通る時、右下にあるプールのそばの校舎の地下室にある倉庫から、ゴーゴーとすごい音をたてて

何かが燃えている音が聞こえてきました。その時点では先生方全員には知らされていなかったのですが、そ

れは非常食用として保管されていた、国か県の950俵もの米であったことを後日知り、「欲しがりません、

勝つまでは」を合言葉にお腹ぺこぺこで頑張ったみんなの気持ちを思い、涙が出そうでした。

 たくさんの死体を踏まないように避けながら歩き、やっと大橋まで来ました。爆風で川に吹き飛ばされた

人や、水を求めて川に降りた大勢の人々の死骸が重なり合い、赤ちゃんを宿した、お腹の大きな若いお母さ

んが仰向けになって息絶えている様子も目に入り、思わず手を合わせて祈りました。

 下大橋を渡り、護国神社の横穴壕にたどり着くのがやっとで、強制疎開のために引っ越した城山マリア学

園の西側崖下に位置していた家に帰り着くことはできませんでした。もう周囲は真っ暗で、護国神社の横穴

壕の中は傷つき苦しみ呻き声をあげている人々がいっぱいで、一歩も中へは入れません。傷を負った大勢の

人々と一緒に壕の入り口で一夜を明かしました。



 アメリカの軍機が夜通し飛んできます。何時頃だったでしょうか。凄い吐き気で苦しみ、昨日の昼食より

何も口にしていないため吐くものがなく、胃液だけを吐き続け、一睡もできず朝を迎えました。

 時計は作業のため外し、職員室に置いたままだったので何時かわかりませんが、夜明け早々まだ薄暗い時

に消防団の方々が壕の周りに来られ声をかけてくださり、とても力強く感じました。おにぎりを置く場所と

その時刻をメガホンで報じられていましたが、とても食べられる体調ではありません。消防団の方々の半被

の背中には「小浜」と染め抜きがしてありました。こんなに朝早く、遠い温泉の町小浜からと、感謝の気持

ちになったことが今でも忘れられません。



 お昼過ぎ頃、やっと立ち上がり、どうにか歩けるようになり、油木の山道の方を通って家に向かいました。

焼け落ちた家々の傍らを大変な思いをしながらぼちぼちと歩きましたが、全身火傷をしたようなヒリヒリと

した痛みと、左耳のキリキリとした痛みが気がかりになりながら周りを見渡して、この様子では家もだめだ

ろう。母、妹、弟はどうしているだろうか、助かって生きていてほしいと心細い気持ちが襲ってきました。

 夕刻4時頃だったでしょうか。やっと家のある場所にたどり着きましたが、自分の家も、周りの家々も、

跡形もなく燃え尽きていました。母は頭に裂傷を負い、体中傷だらけで、昨朝の姿とは別人のように変わり

果てていました。

 私を目にした瞬間、「学校へ、あなたのお骨を拾いに行こうと思っていたよ。」と言いながら、大変喜ん

で抱きしめてくれました。私は、全身の力が抜けて、泣きながら崩れ落ちてしまいました。旧女学校と旧制

中学校の生徒だった妹弟も無事で、その時は皆で手を取り合って喜びました。



 住む家もなく、近所の人々と何日か壕の中で生活していましたが、その後、母に連れられて福岡県八女の

黒土という所にいました伯母を頼って疎開しました。しかし、原爆症のため、9月3日に母は苦しみながら

亡くなりました。私も母が亡くなる4,5日前から髪が抜け、小豆大の紫の斑点が体全体に出て、歯茎から

は出血し、凄い下痢に苦しみ、母の葬儀をするお寺にも行けませんでした。

 みんな心配して、伯母、妹、弟、従兄弟たちにリヤカーに乗せられ、9月はじめの暑い中、皆汗だくなの

に大布団を着せられている私は、寒くてガタガタ震えながら久留米大学医学部へ運ばれました。

 お医者様は私を見られた瞬間、「もう駄目だ」と言われたことを後で知りました。でも研究のためにと献

身的にいろいろな治療をしてくださり、私も治療の苦しみに一生懸命耐えました。お医者様のおかげで今の

自分があることへの感謝の気持ちを一日も忘れたことはありません。また、そのまま長崎にいたら、何十万

人の人々が苦しんでいる中の一人ですから、久留米医大で受けたような治療をしていただくことはできませ

ん。久留米へ連れて行ってくれた母への感謝も忘れることはできません。

 寝返りさえもできない重体でしたが、おかげさまで11月末頃に退院することができました。



 核兵器は恐ろしいことに、65年たった今日でも、癌や肝臓、心臓病でたくさんの人々が命を落としてい

ます。私も7年前に乳癌にかかり、大手術を受け、一命を取り留めることができました。せっかく助かって

共に喜んだ妹、弟も、平成20年の4月と8月に、癌のため相次いで亡くなり、作業をしていて一緒に助か

った林英之先生、弓井一子先生、吉浦アサ先生、そして「水を、水を」と苦しまれた先生方も全員亡くなっ

てしまわれました。

 核兵器の恐ろしさを、身をもって経験した私が声を大にして言いたいことは、命より尊いものはないとい

うことです。また戦争が起こるようなことになれば、人間は欲のために自制心をなくし、核兵器が使用され

るようなことにならないとは言えません。

 皆さんも、これから大人になった時、常に世界の平和を念頭に置き、世界の国々から核兵器が皆無になる

よう一生懸命努力してください。皆さんのこれからの健康と無事息災を願って、私の話を終わらせていただ

きます。お聞きくださってありがとうございました。



                                  平成22年11月