被爆直後の山里小学校 
山里小学校の被害は,コの字型の鉄筋コンクリート三階建(一部は地階も含めて四階)の校舎の南及び西側の三階の部分が崩壊し,まもなく発生した火災により(発火点は正面二階理科室付近)北側の一・二階を残して全焼した。人員の被害は,当日の在校者32人のうち,校長以下職員26人,用務員2人が死亡し,生存者はわずか4人であった。
この日,職員は校区の巡回授業を中止し,二班に分かれ作業中であった。教頭班(男子1人・女子11人)は,本原町の学校水田で除草作業中に全員が火傷を負い,校長班(男子5人・女子10人)は,運動場のまわりのがけに18個目の防空壕掘っている最中で,3人が爆死,9人が負傷した。この時一瞬の差で防空壕に飛び込んだ林 英之ら3人が無事だった。 校舎では,日直1人が助かっただけで,用務員1人爆死,職員2人,用務員1人が負傷した。校舎に火の手が上がった頃,教頭班は学校水田から火傷のまま戻ってきた。しかし,これらの負傷者の中には,その日のうちに息絶えた者もあり,また,大半が10日程の間に死亡した。 このほか,同校では三菱兵器製作所会計課の一部が分散して北側の二教室を使っていた。この分散事務室には,県立長崎高等女学校等の動員学徒を含めて数十人がいたが,学校側と同様死傷者が出たようである。また,屋上見張り所及び玄関近くの仮詰所に待機中の警防団数人の中にも死傷者があった。さらに,地階に保存していた非常食950俵,一週間くすぶり続け灰になった。 なお,本校児童の被害は,校区が爆心地帯であるだけに大きく,通学区内には全焼または倒壊を免れた家屋は一戸もなく,死亡者も多く,一家全滅も少なくなかった。当日,児童は登校していなかったが,自宅で爆傷死あるいは火傷死したものが極めて多かった。その後の調査によれば,本校在籍児童数1581人(昭和20年6月30日現在)のうち,およそ1300人が死亡したと推定されている。
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